今回は大嶋信頼先生の【ミラーニューロンがあなたを救う!】より、人の真似をして呪いの暗示から解放されるテクニックについて書いてきます。
理想の自分(極端な快)と呪いの暗示
以前に、人生改革レッスンにて「理想の自分と呪いの暗示」のワークを取り上げさせていただきました。
たとえば、「理想の自分!」と思った時に、バリキャリでみんなの憧れのデキるビジネスウーマンというイメージが出てきました。
このバリキャリの「理想の自分」が朝起きてまずすることは何?と思ってみると、“朝陽を浴びながら、観葉植物に水やりをする”と出てきます。
「理想の自分」が極端な快の暗示であるとするならば、その反対にあるのが呪いの暗示となります。
快と不快のメッセージを同時に入れられると混乱してしまうので、相手に呪いの暗示を入れられてしまうのです。
では、朝起きてまず水やりをするバリキャリ女性の逆は何で、どんな呪いの暗示を掛けられているの?と思ってみると、朝日が昇ってもカーテンを閉め切ったままの薄暗い部屋で、いつまでも布団の中に潜り込んで起きない自分が出てきました。
これは20代の時の私です。
やりたいことややらなきゃいけないことがたくんさんあるのに、いつまでもだらだらと携帯を見続けてしまって、日が落ちる頃にようやく布団から這い出て化粧をするけれど、出掛ける頃には夜になっている。
そして、「今日も何も出来なかった…」と落ち込むから、深夜になってもなかなか眠れない。
意味のある1日を過ごしたいのに、毎日寝不足だから起きてすぐにベッドから起きれなくて…という毎日を過ごしていました。
このイメージを一言で表すと、「怠け者」なのかもしれません。
実家にいる頃も。休みの日は1日20時間も寝て起きて来ない、パジャマも布団も洗濯をしない、という生活を送っていて、父親が定期的に「部屋を片付けろ!」と怒鳴ります。
👇以前のひとりごとブログにも書いていて、お気に入りの大嶋メソッドです。
人の真似をして、自分に掛けられた呪いの暗示に気づく
人の真似をするって、抵抗がありませんか?
大嶋先生以外のビジネス書などでも、誰かの真似をすることは自己成長に繋がると言われています。
しかし、いざ真似をしようとしても、自分のやり方を変えることになんとなく抵抗がある。
実は、この抵抗こそがミソなんです。
私は、以前はこのミラーニューロンの本を読んだ時は、憧れの人の生活をそっくりそのまま真似していました。
ブログなどに細かく食事内容やスケジュールを紹介されている方を中心に、1か月ほど全く同じものを食べて同じ生活スタイルで過ごしていました。
そして、憧れの人が着ているようなファッションをして、同じような小物を揃えます。
だけど、途中でだんだん苦しくなってきて、「自分」に戻ってしまうんです。
せっかく憧れの人の真似をして理想の体型になったり、ストレスのない生活になっていたのに、慣れてきて当たり前になってくると自己流が出てきてしまって、最終的には一周回って元の自分になってしまっています。
そこで、再度ミラーニューロンの本を読んで気づいたのが、「あ!憧れの人ならどうする?と思うだけで良いのか!」ということです。
呼吸合わせをする時に、相手の吸う息と吐く息に合わせて自分も呼吸をすると、肺活量の違いで苦しくなるじゃないですか。
だから、相手の呼吸に合わせて自分の肩を前後に揺らすだけで良いのです。
(参考:【催眠ガール】)
それと同じで、そっくりそのまま相手の生活スタイルを真似しなくても、困った時に頭の中で「あの人ならどうする?」と思ってみるだけで、自分を捨てて自由になることができます。
そう、催眠って、目の前にないことをイメージすることなんですよね。
さらに、「真似をしたら呪いの暗示から解放されるというのは分かってるけれど、なんかしたくない…」と思っている時、そこには大事な無意識からのメッセージが隠されているのかもしれません。
たとえば私の場合、「ブスな自分の顔をなんとかしたい」という悩みがありました。
ブスな面を下げて人前に出たら、私の顔を見た人が不快になるんじゃないか…とか、ブスな自分に好かれても相手は迷惑なんじゃないか…とか。
そんなことを考えると、家の外に出るのが億劫になって、人とコミュニケーションを取る意欲もなくなっていきます。
そこで、「憧れの人の真似をしたら、顔の肉が取れてシュッとしたマシな顔になれるかも?」と思って、なりたい顔の持ち主を探しました。
私は、モデルのKōkiさんが好きで、「Kōkiさんみたいな自分の個性を活かしたメイクやファッションをして、素敵な外見になりたい!」と設定しました。
だけど、なかなか「真似をしよう!」という気持ちになれないのです。
今までは、憧れの人や尊敬の人を定めるとすぐに真似を開始できたのですが、なんだかものすごく真似したくない気持ちになる。
こんなにもブスをなんとかしたいと焦っているのに…。
そこで、“自分を捨てられない”のはなぜか?を私の中のKōkiさんのイメージから探ってみることにしました。
「Kōkiさんみたいになりたい!」と思った時、私は「Kōkiさんは謙虚でストイック」なイメージがありました。
じゃあ、その反対の「怠惰な自分がバレるのが嫌で、ブスな自分の顔を人前に晒せないんだ!」ということにまず気づきます。
それでも、まだなんとなく真似をすることに抵抗がある。
私の中の勝手なイメージですが、自分はKōkiさんのように健康的な食事をして毎朝運動をするなんて、それをしたらキレイになれると分かっているけれど、面倒くさくて出来ない!と思ってしまうのです。
これは、「きちんと生活をしているのは、なんだか自分の性に合わない」とも思いますし、美人できれいになった自分を想像してみても、「なんだか自分じゃないみたい」で違和感があります。
さらに探っていくと、「きれいになってきちんと生活をしている自分を母親に見られるのが恥ずかしい」という気持ちが出てきました。
母親よりも美しくなって、仕事ができる女性になることにも気恥ずかしさがあるので、「だから自分は自分のために努力ができなかったんだ!」と気づきます。
もしかしたら、母親からの嫉妬を恐れて醜い容姿に落ち着こうとしているところもあるかもしれませんが、私の中で「美しい生活をして、美しい容姿を得る=大人で自立している」という方程式があることを知りました。
いつまでも子供でいる呪い?
いや、顔や生活も人に見せられない自分でいることに妙な安心感がありますが、昔から母親に「あんたはお父さんに似て不細工」「あんたの声は低くて男みたい」と言われ続けていたことを思い出しました。
私も妹も声が低いのですが、母方の祖母からは「電話に出た時の声がお母さんとそっくりやで!」と言われていたのです。
なのに、母からは「男みたい」と言われ続けていたので、占い師の仕事をするまで自分の声が大嫌いでした。
占い師の仕事をし始めてから、「以外と声が低い」と言われることが多くて、それは誉め言葉だと知りましたし、私の声が好きだと言ってくれる人に多く出会うことができ、今ではYouTubeやライブ配信を堂々とすることができています。
そう、私はきっと、母に認めてもらって愛されたかったのです。
母親に愛される容姿が「ブスじゃない=美人」な容姿だけど、母親に喜んでもらうのもなんだか歯がゆい。
母親を喜ばせたいはずなのに、母親を喜ばせることを避けてしまう。
私の呪いの暗示はここにあったのです。
つまり、「いつも母親に不快感を与える気持ち悪い存在」というのが自分に入れられていて、だから「母親に愛されない」。
母親が自分の中で世界のすべてだから、無自覚に母親を周囲の人々に投影してしまっていて、だから「ブスだと生きている価値がない」と極端な考え方になってしまっていたのです。
「Kōkiさんみたいな美人になりたい!」と真似をしようとして出来なかったのは、美人になったら母親に愛されなくなるから。
見事なダブルバインドだったわけです。
(あんたは不細工/あんたはお母さんの子供だから美人になれたはずなのにね)
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