「紅茶やお茶は水分ではない」というのを聞いて、「え!?」と思ったのはFAP講座を初めて受けた時で、衝撃の事実でした。
それまで「水」を飲むという習慣がなかったので水を飲んでも味気がないし、もっと舌に刺激が欲しいような感覚になっていました。
これと同じような感覚なのが「辛いものが好き」です。
辛いものを食べて舌がピリピリする感覚を感じていたいのか、辛いものを摂取すると必ず腹痛が起きると分かっているのに、食べるのを止められませんでした。
「やめたくてもやめられないことの裏には罪悪感が隠れているのかも?」と書かれていたのは、『罪悪感をなくして心のフットワークをよくする処方箋』だったと思います。
何度も繰り返してやってしまう行為の裏には罪悪感が隠れているかもしれない…この気づきだけでも私の中では大きな進歩がありました。
まず、何度も繰り返してやっている時点で、自分では罪悪感を全く認識できていないんですよね。
だから「次こそは上手くいかしたい!」とか「次はもっと上手くやれるはず!」と根拠のない自信で奮い立たせては、同じ失敗を繰り返していたりします。
他には、「これはやらない方が良いだろう…」と頭では分かっているのに、「ああ…またやっちゃった…」となってしまうこと。
たとえば、お菓子を食べると顔がむくんだりニキビができてしまって後日凹むと分かっているのに、目の前の衝動を抑えきれずに「またお菓子買っちゃった…」となるような場面です。
「がんばったご褒美」として甘いものやポテトチップスを自分に与えている時点で、実は退行(子供返り)してしまっていたりします。
人間っていうのは「ちょっとがんばったら休んでも良いかな~」と思ってしまう心理があるそうです。
(どの本に書いてあったか忘れたので、思い出したらまた記します)
だから「今日も職場の嫌な人間関係を乗り越えた!ご褒美に甘い物を食べよう!」となるし、「最近ダイエットがんばってるから、中間祝いに少し好きなもの食べても良いよね!」と自分を甘やかそうとします。
甘やかすこと自体は問題ないのですが、自分を甘やかしたその後に「ああ…自分はなんてダメなんだ…」と凹んでしまうようならば、やはりコツコツ努力を継続していった方が良いのだと思います。
退行して子供返りしちゃう心理というのは、きっとどこかで「大人になりたくない!」と精神的な拠り所である母親を欲している状態なんだと思います。
私は「自立したい!」と思いながら、「なんで人の言うこと聞かなきゃいけないの!」といつも同調圧力に敏感に反応していた同調圧力チルドレンであって、いつまでも精神的な子供でいて責任を負いたくないと逃げ回っていたのでした。
(同調圧力チルドレンの話は『誰にも嫌われずに同調圧力をサラリとかわす方法』の載っています)
いつも人の目ばかり気にして「一人にしないで~」と思っているのに、「私にルールに従えと押し付けてこないで!」という怒りが出てきて、そんなイライラしてる自分を感じていると「あ…こんな自分ではみんなに見捨てられてしまう…」と社会のルールを遵守しようと思うけれど、やっぱり人のルールに従うのは癪だし「アイツはルール守ってないやん!」と出来てない人を見ては目くじらを立ててしまう。
じゃあ一体、人にどうしてほしいの?というのが以前の私でした。
私の言う通りにしてもらっても気に入らないし、「あなたは自由にやってもいいよ」と言われても他からなんだか仲間外れにされているような気がするし、だけど他人の意見ややり方を押し付けられるのは嫌!
同調圧力だと認識していなくても、世の中のあちこちに勝手に同調圧力を感じては、世間に怒りを感じていました。
本当は誰も自分に同調圧力なんか掛けてきていないのに、相手の言葉や態度を勝手に「私に強制してきている!」と捉えてしまっていたんですね。
身近なところでいうと、SNSがそうだったかもしれません。
フォローしている人にはいいね!をするのが義務だとかそんなことを感じていたので、「なぜ私の投稿にはいいね!が少ないの!」と共感を示してくれなかったり理解してくれないフォロワーにイライラしていました。
(もちろん本当にいいね!と思っていいね!を押している投稿もたくさんありました)
だけど本来SNSは自由にいいね!やRTなどのリアクションが出来るものだし、個々人が自分の行動を自由に表現して良い場所なんですよね。
誰かに「いいねして!」と強制された訳ではないのに、いつの間にか「フォロワーさんにいいねをしないと非国民…」みたいな感情になって、他人の投稿をスルーできなくて、1日中SNSとにらめっこしているような感じになってしまっていました。
「他の人の投稿を1つでも見落としてしまうと、仲良くしてもらえない…」みたいに。
気軽に楽しくやればいいのに、自分の中で勝手に義務化しているから、他の人の行動を見て「なんでやらないんだ!」って強制してしまうんですよね。
これって「同調圧力チルドレンだよね!」と思ったとき、ものすごく恥ずかしくなりました。
私が「なんでいいねしないの!」と怒っていたのは、誰かのためや自分の本心ではなく、「母親に嫌われたくない」から。
たくさんの人にいいねしてもらえなくて、逆にみんなにスルーされて孤独な自分は母親に愛されない子供になってしまう。
だから「みんな何でいいねしてくれないの!してくれないと私が母親に見捨てられるダメな子になってしまう!」となっていたのだと思います。
SNSこそが知能の多様性のさまざまな在り方をリアルに見れる場所なのかもしれません。
自分の価値観こそが正しいと思ってきたけれど、その価値観は実は母親の価値観であり母親のルールであった。
なので、もっと広い世界に出た時に多種多様なルールや価値観と出会って「自分が知っていたものとは違う価値観」と出会ったとき、そこから新たに生まれる人間関係は母親からもらった何かを脱ぎ捨てないといけない。
だけど一歩勇気を出して母親からもらった価値観を脱ぎ捨てたとき、母親にもらった価値観も全くの無意味だったわけではなく、それが今までの自分を守ってきてくれたことが分かるだろうし、これからは新たな価値観の元で母親から巣立ってひとり立ちする自分が見えてくるかもしれません。
母親に悪意があってやっていなかった場合はさぞ脱ぎ捨てがたいかもしれませんが、今までの母親の価値観とこれから出会う広い世界の多種多様な価値観との化学反応で、私自身が知らない自分として成長していく可能性をワクワクしながら待っているのです。
本日のメタファー:紅茶、お茶、飲み物
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「同調圧力チルドレン」という衝撃な言葉が自分の中の流行語大賞になったのは、大嶋先生のこの本です。
『誰にも嫌われずに同調圧力をさらりとかわす方法』
「あ、これも同調圧力だったのか!」「私、これも同調圧力感じてるし、他人に掛けてるわ…」というのがボロボロ出てきました。
「なんで私が!」と思っているときはだいたい同調圧力がそこに存在している時だと思って、「精神的な大人の自分」を思い出します。
これは『緊張しちゃう人たち』の「IQ〇〇の私だったら?」「愛された私だったらどうする?」シリーズと通じるところがあるのかもしれません。
(ついに今日、このシリーズが終わりましたね)
同調圧力で神経過敏になってさらに興奮してしまっていたけれど、知能の高低差の話にたとえるならば「通じ合えなくて当たり前」。
通じ合おうと躍起になったり、通じ合えない自分にダメ出しをしたりするのではなく、いろんな知能の多様性を認めて、そこに楽しさや新しい視点を見出せたら面白いのかもしれません。
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