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幼い私の見てきた世界で作られる「今」

ひとりごと
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「客観的情報を集める」をしていくと、面白いものが見えてくる。

たとえば、家の間取りを1つ1つ聞いていくと、まるで自分がその人の人生を追体験しているような感覚になってくる。
だから私は、家を見るのが好きなんです。

私とは違った人生がそこにあり、私とは全く異なるものを見て歩んで来られたその方は、私の知らない苦労をされていて、そして私とは全く違う痛みを持ってらっしゃる。

私がその人の「家」を頭の中でイメージした時に、孤独を感じたり、悲しみを感じたり、恐怖を感じたりするこの感覚があるから、私はその方に共感することができるのです。

これを過去の自分にもやってみました。

実家の間取りを玄関から1つ1つ思い浮かべて、どんな色の床なのか、階段は何段ぐらいあったのか、2階へ続くその階段を上る足の裏の感触を確かめながら、2階から聞こえてくる父親が見ているテレビの音に耳を傾ける。

そうして子供の頃の私が、自分の部屋に一人でうずくまっているのを発見したので、優しく声を掛けてみると、母親に「もっとお母さんのことを考えてよ!」と泣かれたんだと、その子は泣きじゃくりながら私にしがみつくのです。

大人の私はそれを見て、「ああ、だから私はいつも人を傷つけないようにと、人の気持ちに敏感だったんだ」と気づきました。

人生の中で、恐らく私は他人のことを考えている時間が圧倒的に多かったと思います。

家で1人でいる時なんかは、常に「〇〇さんのことを不快な気分にさせたかもしれない」とか「〇〇さんは怒っているかもしれない」とか、いろんなことを想像して怯えていました。

そんな状態だったので、自分のために何もできなくて、ひたすら悪夢の世界を生きていて、あっという間に時間が過ぎていってしまっていました。

確かに私の母親はいつも私のことを考えていたのかもしれない。
そのおかげで、私はもしかしたら何不自由なく過ごすことができていたのかもしれないけれど、私が世の中に出てから「出来ないこと」というのが多すぎて、その度に「死にたい」と思ったものです。

どうして「死にたい」なんて思ってしまうのだろう?と思ったりもしたけれど、今感じている痛みを少しでもやわらげるために、痛み以上の痛みが必要だった。

きっとあの頃の私は脳内麻薬バリバリだったので、相当な痛みや刺激がないと「生きてる!」と感じられなかったのでしょう。

でも、「生きてる!」と思えば思うほど、人に対して申し訳なさを強烈に感じるのです。

私が生きているだけで誰かに迷惑をかけて、自分に関わってくれた人みんなを不幸のどん底に突き落としてしまう疫病神だと。
そう思っていたので、どれだけ辛くても「人に相談する」という選択肢が思い浮かびませんでした。

そもそも家族に悩みを相談するということもしてこなかったので、私は自分以外の人が悩んでいることすら知らなかったのです。

占い師になってから、「みんな、自分と同じ悩みを持っているんだ!」と知ったことは、私の世界を大きく変えました。
自分だけがおかしくて、みんなは普通に幸せに毎日を生きていると思っていたから。

でも、みんな私と同じような悩みを持っていて、自分のように毎日悩みながら生きていた。
私はそれまで、「こんなに悩んでしまうのは、自分が人間失格だからだ」と本気で思っていたので、そこでようやく新陳代謝が始まったのです。

自分を「人間だ」と認識して、自分以外の人のことも「人間だ」と認めた時、私はまずトイレに行くようになりました。

私は昔から小食で低体温気味で低血圧だったので、自分のことをまるでゾンビのようだと思っていました。
そして、自分以外の人は「私と違って素晴らしい存在」で「神様」のような存在だと思っていたので、だからいつも「人から裁かれる!」と怯えていたのかもしれません。

FAP療法を始めるまで、1日1回トイレに行くぐらいが普通だった私は、30分に1回トイレに行くようになりました。
さらに、「なっちゃんは細いね!」とどこに行っても言われていた私が、人生で初めて太ったのです。

ダイエットとは無縁だと思っていた私が、FAP療法で太って、一般的な女性と同じ「痩せなきゃ!」という悩みを持った時には、若干の喜びがありました。

客観的情報を集めて「幼い私」と対話したあの日、「今の自分よりも大人だなあ」と思ったのは、ちゃんと人のことを考えて、我慢して感情をコントロールしていたから。

でも、それが大人と言うのなら、今の私はそんな大人にはなりたくない!

子供の頃はずっと「早く大人になりたい」「大人になったら自由だ!」と思っていました。
たしかにその通りで、自分で稼いだお金で好きな物を食べて、親にいちいち確認しなくても「欲しい!」と思ったものを買える。

だけど物を買った瞬間に罪悪感が湧いてきて、母親の「また無駄遣いして!」という声が聞こえてきたような気がする。

小さい頃に憧れていた大人になれたのに、私は毎日毎日、罪悪感と怒りにまみれていました。

なぜなら、客観的情報を集めて出会ったあの幼い私のまま、ずっと時が止まってしまっていたから。

年齢だけ重ねて、自動的に社会に出て、「みんなと同じように家庭を持たないと!」とか「定職に就かないと!」と気持ちばかりが焦っていたけれど、結局何一つ叶えられていなかった。

それでも無意識は、私に「大丈夫」と言ってくれる。
無意識は知っているんです。
私が望む「普通の幸せ」は、それではないことを。

私が望む「普通の幸せ」とは、何事もなく毎日を過ごして、心穏やかに生きること。
そこには、誰かとともに生きるとか、お金をたくさん稼ぐとかはなくて、ただただあの日あの時に私の部屋で佇んでいた泣いている幼い私が「もう助けて」と言っているような気がした。

「何者にもなれなくて良いから、私はただ自由に自分の生きたい道を生きたい」
だけど母親の呪縛があるから、私は母親を置いて自分だけ勝手に1人で幸せになるわけにはいかない。

客観的情報を集めて見たあの頃の私の部屋には、明るい西日が窓から差し込んでいて、その明るさとは対照的に、一人の女の子がポツンと泣いているのです。

どうして誰にも抱きしめてもらえなかったのだろう?と怒りが湧いてきそうになるけれど、私はその子に「もう大丈夫だから」と伝えるのが今の私の役目なんじゃないかとも思うのです。

私がここまで生きてきたのは、決して1人ではなかったかもしれない。
だけど、私の心の中はいつも孤独でひとりぼっちだった。

そんな孤独を憎むのではなく、幼い自分がたった一人で生き抜いてきた勇気を、今の自分が受け継いでいるんだと、そう誇りに思えたらなあと思っています。

 

本日のメタファー:尾ひれの長い金魚

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