今日もまた、「やかん」とか「鍋つかみ」とかいうメタファーが浮かんできます。
「やかん」はうちにはないですねー。
最近はもうみんな電子ケトルを使っているようで、むしろうちの両親の方がそれを先にキッチンに取り入れていて、私に「これ、いいよ」と教えてくるような感じです。
私の中の“常識”というのは、未だに数十年前の実家にいた時の自分のままなのですが、両親は進化しているようでいち早く敏感に流行に乗っていきます。
iPhoneもなぜだか私よりも最新版のものを使っていたりするので、驚きます。
そうやって、未だに昭和の価値観でいる私なのに、両親は当たり前のように世の中に順応していって、私よりも柔軟に新しい物を生活に取り入れている様子を見ると、なんだか複雑な気持ちになってきます。
私は、自分では両親の言いつけをしっかりと守って生きているつもりだし、昔実家にいて過ごしてきた生活が私の中の原風景だから、それが“常識”で“当たり前”だと思っているのかもしれませんね。
何も新しい物が悪で、古い物が良い物というわけではないのです、なんとなく私の中ではそんな構図が出来上がっていて、新しい物を取り入れる時に自分の中で反発が起こるのです。
特に人から言われたことを素直に従えないのは、反抗挑戦性障害なのかな?と思ったりします。
(以前、大嶋先生のブログに書かれていた時は「私のことだー!」と思ったものです)
それで、人から「これ、いいよ!」と勧められたものを素直にやってみたらシナプスが刈り込まれたりもすると思うのですが、どうしてか素直に従えずに真逆のことをどんどんとしていってしまう自分がいました。。
これがあるから人との一体感を感じられないのかなあとか、これがあるから人と上手く会話できないのかなあ…というのがありました。
だって、人と正反対のことをやって自分を落ち着けているわけですから、会話って相手のことを否定しない方がどんどん進んでいったりします。
もちろん、自分のことも否定されると「あ…」と会話が止まってしまいます。
だから「褒める」という文化ってとても大事で、私は「褒める」のがとても苦手でした。
それは人を褒めたくない!とか、あんなやつ褒めるとこがない!と思っているからではなく、「私が相手を褒めるなんて恐れ多い…」という謎の謙虚さからきていたのです。
「褒める」って、なんだか私のなかでは上から目線のような気がしていました。
だから、褒めることで相手より上の立場の自分になってしまうのが怖かった。
「お前は何も分かっていない!」と思われるのが怖かった。
もちろん、お前なんか褒めるとこはないんじゃ!と思っていた時もありましたが、本当は「褒める」というところにものすごい気恥ずかしさを感じていて、「褒めたら、なんだか自分が自分ではなくなってしまう…」という感覚がったのです。
「褒める」をしないと、どんどん自分の中でストレスや批判の感情が渦巻いていきます。
だから電子ケトルを勧めてくる両親に「いいねー!」「うちの両親は最先端!」と思えればいいのですが、褒めないとなんとなく取り残されたような孤独感を感じていくのです。
「褒める」っていうのは結構簡単で、大嶋先生の書籍にもいろんな角度から他人を褒める方法を書かれています。
「思ってもいないところを褒める!」という『チクチク・いやみ・理不尽と感じる「ほんのひと言」に築かなくなる本』に紹介されていたメソッドは、先に相手の褒めるところをシミュレーションしていては上手く褒められないというような感じでしょう。
考えて考えて…会話もシミュレーションをして完璧に受け答えをしている自分を脳内で作り上げていても、実際は会話の流れというのは思ってもいなかった方向に進んでいったりします。
そうなると「頭が真っ白になって会話が進まない!」となるのですが、そうなった時こそ「チャンス!」というのがこの本の特徴だったと思います。
「頭が真っ白!」になった時に、そこには意識的な判断から外れて、無意識の自分がひょこっと顔を出しているのだと思います。
意識的な自分を捨ててみた時に無意識の自分は何でも知っていて何でもできて、だから「あ、判断しなくても自分はちゃんと答を知っているんだ!」と気づけるのかもしれません。
私には「知能のコンプレックス」というのがあり、自分が人よりも劣っていることを認めたくないけれど、逆に自分は平均よりも上なんじゃないのか?という優越感があります。
この矛盾した感情は一見、正常な優劣の錯覚なのかもしれませんが、こうやって「醜く劣っている自分」と「賢くイケてる自分」との間を行ったり来たりすることで、やがて本当の自分を見失っていきます。
なぜなら「賢い」も「醜い」も「劣っている」も「劣等感を持っている」も、全部主観的で意識の判断だから。
意識の判断を外した時に見えてくる知能差というのは、そこにはなだらかな草原がつづく春の野原のようで、モンキチョウが飛んでいたり野原には黄色いタンポポや名前のない花が咲いていたり…そんな美しい光景が見えてくるのです。
「知能」というのは客観的判断の材料に過ぎないのかもしれません。
そこに固執して「自分は賢い/偉い」と錯覚してしまわないように、私の無意識はいつも劣等感を抱かせていてくれたのかもしれない。
そう思うと、上手くバランスを取るようにジオラマが私の中で、二つの物語を作っていくのです。
「賢く優秀な自分」と「醜く劣等感のかたまりである自分」。
そして、「両親は自分よりも年上で融通が利かない面がある」と「新しい物好きで最先端を生きる心が若い両親」。
どちらが良いとか悪いとかではなく、その両方の物語のジオラマを楽しんだ時に、私たちの人生はもっともっと精巧なジオラマを描いて、私にピッタリ合った街や路線を私の心の中に作り上げてくれるのかもしれない。
無意識とともに。
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今、『無意識さんの力で無敵に生きる』を再読しています。
私は実はパンチの効いたドロドロした話が好きなので、『それ、あなたのトラウマちゃんのせいかも』が一番好きだったりします。
だけどヒョンなところから大嶋先生の本を2週間で読破した方のレビューを見つけて「もう一回読みたい!」と思ったのです。
トラウマだらけの頃は、物事が以前よりスムーズに行ってるかどうかさえも分かりませんでした。
だけど、トラウマをFAP療法や催眠スクリプトで取っていった時に「あ、自分の中が変化しているかも」と大きく気づく機会が増えてきました。
だから、もしかしたら今、改めて読んだら、私の中の“何か”が変化を起こしているのを実感できるのかもしれません。
ちょっと不思議だったのが、無意識さんの本を読み終えた日に、止まっていた仕事がバババン!!と動き出したり、苦手な人との関係が急に良くなったり、なんだか環境が急速に好転しだしたこと。
のこの文章で、「私も無意識を起動してバンバン物事を動かしたいから、もう一回読もう!」と思いました(単純)。
今、大嶋先生の昔の本を読み返すと「あ、これってこんな時から大嶋先生は提唱されていたんだ」ということがたくさんあり、それを現在別の方向から新しい本で何度も伝えてくださっていることに感謝します。
でも、まあ本当に何回読んでも大嶋本は内容が覚えられないから、「あ、こんなこと書いてあったなー!」と新鮮な気持ちで何度も読めます。
何度も目からウロコが落ちます!
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本日のメタファー:銀色のやかん
もう、スタンダードなやかんですね。
このやかんよりも少し焦げ付いて使用感があるようなやかんが、本日のメタファーでした。
誰かの脳に繋がっているのかもしれないので、Amazonのリンク貼っておきますね!
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