たっぷりとした筆の先に墨汁をつけて、真っ白い長半紙を前にしています。
だけど、まだ何の文字を書くかを決めていなくて、縁側の向こうから聞こえるししおどしの音を聞きながら、手は空中で止まったままです。
すると、筆の先から墨汁が落ちてきそうになって慌てて硯に筆を戻して、硯の中で何往復かさせながら、そのたっぷりとした毛の感触を感じています。
それから、再び紙に挑むと、でもやっぱり何の文字を書こうか思いつかなくて、そんな気持ちをまぎらわそうと縁側の景色へと視線をそらします。
そして、春になったばかりの縁側には、青々とした緑の背の低い木がまん丸にカットされているものが庭にずらっと並んでいて、その上をちゅんちゅんと雀があっちへ行ったりこっちへ行ったりしています。
けれども、それを眺めていても一向に書きたい文字が浮かんで来ないので、私は筆を硯にそっと置いて、袴の裾をゆっくりと丁寧に持ち上げると、縁側のあたたかくやわらかい陽に当たりたいと思ったのです。
そうやって、私が縁側へ近づくと、先ほどまで行ったり来たりしていた雀がサッと一斉に庭の向こうへ飛んでいきました。
しかし、私は雀を追い払いたかったわけではなかったのでちょっと寂しい思いになって、でも代わりに庭の池の鯉が水面を叩く音が聞こえてきたので、そちらをのぞいてみようと興味をそそられます。
そうして、私は少し長い袴の裾をちょっと持ち上げて、日当たりの良い縁側を歩くと、歩くたびに私の重みの分だけ凹む板の感触を、足の裏に感じるのです。
さて、庭の小さな鯉の池にたどり着いてみると、一匹の立派な鯉が優雅に泳いでいます。
それから、しばらく白とオレンジのまだらの鱗を眺めていると、時折鯉は水面に顔を出して、ぽちゃんとあたりに波紋が広がっていきます。
こうして、優雅に泳ぐ鯉とその波紋を眺めていると、私も鯉になって、大きな尾ひれやなめらかな体を水中でぐいんとカーブをさせながら泳ぐのは、心地いいんだろうなあと思ったりして。
でも、もし私が人間から鯉になったとしたら、人間と同じように音を聞いたり、目で見たりすることができるのだろうか?と少し疑問に思うのだけれど、じゃあ、なぜこの人間の感覚を手放したくないのかと問われると、それは分からないなあと思って、それでも池の中でゆっくりと旋回する鯉から目を離せません。
だって私は、私の記憶では、この世に人間の男として生まれてきてから、それ以外のものを知らないし、今私の頭上で鳴いている名前も分からない鳥がもし私の前世だったとしたら、今の私はそれを忘れてしまっているということになるでしょう。
だから、今の私が知っていること以上のことを知りたいと思っても、私は忘れているかもしれないし、でも心のどこかで覚えているかもしれないと思って、そんなことを立ったままぼんやりと考えていると、私の中で行ったこともないある場所の光景が浮かんでくるのです。
そして、それは焦点の定まらないぼうっとした青白い光でした。
さらに、その光をぼーっと眺めていると次第に輪郭がはっきりしてきて、その青白い光はどこかのビルの非常階段の扉だということが分かって、その扉の向こうからはわずかに都会の喧騒が聞こえてくるのです。
そうして、扉の向こうから聞こえてくる車の行き交う音や、パトカーのサイレン、どこかのデパートか学校から流れる音楽に注意を向けていると、ふと私の後ろから階段をのぼってくる規則正しい足音が聞こえてきたので、私の肩や背中の筋肉がだんだん固く力が入っていくことが感じられます。
すると、その足音は私がいる1階下の踊り場で止まったようだったので、私は思い切って振り向こうかどうしようか少し悩んで、いや、でもなんとなくこの青白い非常口を眺めている方がいいかな、と思ったんです。
というのも、今私の後ろにいる足音の主が、もし私の方へ上ってくる足音がしたら振り向こうと思っていて、もし私から遠ざかって階段を下りていく足音がしたら、振り向かないでおこうと思ったんです。
そうすることで、何が変わるのか分からないけれど、私の固くなった背中や肩の筋肉の緊張を感じていると、私はいつでもどこにでも瞬間駆けて行けるんだぞ!と私の中に力が漲ってきます。
それから、耳をそばだてて、相手が起こす空気の揺れまで感じ取ろうと、私はじっと身を固くして、全身がまるで感覚器になったように、ただ視線だけはまっすぐと目の前の青白い光を睨みつけているのです。
まるでそれは、獣が獲物を狙って身構えるような集中力の高さで、その張り詰めた空気は、呼吸や心音でさえ聞き分けられそうなぐらい研ぎ澄まされています。
さらに、わずか数秒、いやもっと刹那か、暑くもないのに私の額から顎へと汗が流れ落ちていくくすぐったい感覚を我慢していると、階下の空気に揺れがありました。
そう、結局あの足音の主は私が今いる方へと階段を上って来ず、私から遠ざかっていく足音を聞きながら、私は肩の緊張を解いて1つ溜息を吐き、瞼をゆっくりと閉じます。
そうすることで、私自身に危機が去ったと教えているような、それともそもそも危機なんかなかったのか、遠ざかっていく足音を聞きながら、さらに1つ大きな深呼吸をして息を吐き出します。
そして、再び瞼を開けた時に、目の前にある青白い光を放つ非常扉の向こうの景色がふいに見たくなって、その冷たいドアノブを右手で握って前に押します。
もし、この扉の向こう側が私の望んでいる世界ではなかったとしたら?と一瞬あの感情が頭を過るのだけれど、それは目の前の光を真正面から浴びた時にどこかへ吹っ飛んでいったのです。
だから、私が聞きたかったのは都会の喧騒でもパトカーの音でも、どこかのデパートから流れる大音量のアナウンスでもなくて、もしかしたらあの池にいる鯉が水面に顔を出した時のぽちゃんというかすかな音かもしれないんだということ。
それならば、私はまたあの袴を着て、今度こそは自分が書きたい文字が見つかるのかもしれない、とそう思いながら、再び硯に置いていた筆を手に取って、半紙のざらざらとした感触を確かめるのです。
すると、外からは逃げたはずの雀の声が何羽か聞こえてくるので、また庭に出て縁側でひなたっぼこをしてさぼろうかなと思うのですが、いやいや、それよりも次こそは私はこの筆を半紙につけて、黒く太く力強い文字を書き殴りたいのです。
そうやって、筆を持つ手に力を込めると、私の気合とは裏腹に気の抜けた雀の声が庭から聞こえてくるのですが、今度こそは、と筆を半紙に走らせます。
そして、書き上げた私の作品は、今もまだあの客間に飾ってあって、私は何かを思い出したい時にその書初めの前に佇んで、じっと文字のとめ・はねの力強さを目でなぞり、その美しさを胸に刻むのです。
ひとつ、爽やかな空気が頭に流れてきます。
ふたつ、身体がだんだんと軽くなってきます。
みっつ、大きく深呼吸をして頭がすっきりと目覚めます。
―――――
季節感バラバラですが、それもたぶん催眠なのでこのままにしておきます。
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