PR
スポンサーリンク

自分の感情を否認するのは、誰かを庇っているのかも。

ひとりごと
スポンサーリンク

私の家の近所には、バラを植えて育てているお家があります。
なので、これからの時期は色とりどりの近所のお家の花壇を眺めながら散歩することができて、それはとても贅沢な気分になれるのです。

「バラ」と言えば私が思い出すのは、『星の王子さま』です。
大嶋先生が好きな方は、バラの詩人のお話を思い出すのではないでしょうか。

私は、『星の王子さま』に出てくるあの口の悪い意地悪なバラにとても親近感を覚えると同時に、見ていて腹が立ってくるところもあります。
「なんでそうゆうふうにしか言えないのかなあ!」と思ってバラの発言にイライラするのは、投影同一視が起こっているからかもしれません。

「投影同一視」とは、簡単に言うと同族嫌悪みたいな感じです。
自分の認めたくない部分を他人に投影して、自分のことは棚に上げて「あいつはここがなっとらん!」と怒ることです。

「否認」の感情ですね。
自分の問題に向き合ってしまったら自分が自分でなくなって壊れてしまうような怖さがあるから、自らの問題に直面できずに話を他人の問題にすり替えてしまう。

だけど、自分の潜在意識では「自分のここが悪い」と分かっているから、「あなたも同じことしてるじゃない」なんて他人に指摘されようものなら激怒してしまいます。

よく「他人を見て我が振りを直す」だとか「他人は自分の映し鏡」だとか言いますが、きちんと内省して「私のここが悪かった」と認められる人は、もしかしたら他人に対してもあまり怒りを感じないのかもしれません。

いつも誰かに怒っていて、誰かを批判しまくるその心とは、もしかしたら自分の中の罪悪感なのかもしれません。

「自分は全くどこも立派ではないのに、人を裁くようなことをしてしまっている…」と思って、できてない自分ができている他人にいつか「ダメな自分を暴露されるんじゃないか…」と怯えながら過ごすから、周囲の人が全て得体の知れない敵に見えてしまうのかもしれません。

怒りの感情と悲しみの感情と、そして恐怖の感情というのは、自分自身でも捉え違えていたりします。

「私は怒っている!」と思っていても、その怒りが静まることなくどんどん増幅していく場合は、他人の怒りを自分のものにしてしまっている時か、もしくは「怒りではない時」だと思います。

よくあるのが、本当は悲しいのに怒ってテンションを上げているような時。

「悲しい」と自覚してしまうと、今いる足場がみるみる崩れてなくなっていってしまいそうな恐怖があるから、「私は怒ってる!」と自分を鼓舞しているような時です。

反対に「私はとても悲しかった…」と思っていても、全然涙が止まらずさらに悲しさが倍増してしまう場合も他人の感情を受け取って自分のものにしてしまっているか、もしくは本当は怒っているのに「怒りで全て破壊してしまうかも…」という恐怖で悲しんでいる自分ということにしてしまっている場合です。

これの簡単な判断方法は「心に聞く」ですが、心に聞けない方は中指ビンゴでぶらぶら~と手を振っても良いでしょうし、「しっくりくる感情」を見つける作業をしても良いかもしれません。

心に聞いたり中指ビンゴを使わない場合、頭の中で「私は怒っている」と思った時に今感じている怒りがスー…ッと消えていったら、「私は怒っていた!」ということになります。

だけど、「私は怒っている」と思っても特に感情に変化がなかったり、むしろ怒りが増幅した場合は、自分の感情を捉え違えている可能性があります。

なので、当てずっぽうで良いので「じゃあ、私は悲しい?」とか「私は恐れている?」とか「惨め?」とか自問自答していって、気持ちがスー…ッと治まる言葉を探っていきます。

そうすることで、自分の本当の感情がパズルのピースのようにカチッと嵌まった時に、苦しみから抜け出られて、自由に喜怒哀楽を感じられる心を取り戻せるでしょう。

それまでは「怒り一色!」「悲しみ一色!」で塗りつぶされていた心に、再び虹がかかるように…。

 

本日のメタファー:朝顔、紫陽花、梅雨

コメント

タイトルとURLをコピーしました