私は小学生の頃、スーパーボールを切り刻んでその断面を眺めて「きれい…」と思っていました。
でも同時に、本当は切り刻みたいわけじゃないとも思っていたんです。
祭の出店でスーパーボールすくいをして、1Lのペットボトルにそのスーパーボールをコレクションしていました。
スーパーボールは単色のものもあれば、透明で中にキラキラしたものが入っていたり、濁った色をしているものもありました。
ずっとスーパーボールを眺めては、何か心の底がもぞもぞする感じがあったんです。
「こんなにきれいなものをただ置いて眺めているのはもったいない!」って。
だからと言ってスーパーボールなので、転がすとか床にバウンドさせるとか、小学生ではそんなことしか思いつきません。
当時の私は家では両親とも妹とも誰とも喋らず一人遊びしかしなかったので、自分の乏しいインスピレーションからは「切り刻む」しか思い浮かばなかったんです。
切ったら元に戻せない。
まさか切った後を接着剤でくっつけるわけにはいかないし、そんなことをしても元のキラキラと光を通すスーパーボールには戻りません。
なぜ小学生の私がもやもやしながらスーパーボールを切り刻んで「たしかに断面はきれいだけど、求めているのはこれじゃない」と思っていたのかというと、何が好きなのかわからなかったから。
自分が何を求めているのかわからなかった。
では、自分の好きなもの、求めているものがわからないとどんな不具合が起きるのかというと、「夢が壊れてしまう」ということ。
それは人との繋がりだったり、何が不快で本当に求めているのかどんどんわからなくなっていってしまうこと。
つまり、自分の人生を生きれていないということなんです。
切ったスーパーボールが元に戻らないように、そこで捨てるしかない。せっかく集めていたのに…。
しかし、眺めているだけじゃ嫌だったんです。
でも、どうしいたらいいのかが「わからない」。
実はこの場合の「正解」は、“人のためになることをする”ということだったんです。
自分1人で眺めていても満たされなかったのは、「1人」だったから。
つまり、私は1人で満足することを求めていたのではなくて、「誰かとのつながり」を求めていたからもやもやしていたんです。
たとえば、「このスーパーボール、とてもきれいだよ!」と伝えて共感し合いたかった。
このスーパーボールを通じて、誰かに何か伝えたかったのかもしれません。
だけど、その手段がなかった私は1人で満足することしか考えていなかったので、持て余したスーパーボールを切り刻んでみるしかなかった。
最初は半分に。それでも満足できなかったから、どんどん細かく刻む。
細かく刻んでも「何か違う」と思ったまま、後はその残骸をコレクション缶の中に戻すか捨てるしかなかった。
つながりを求めるために、「何を作るか」が大事なんです。
自分のために作るのももちろん大事なんだけれど、誰かが喜ぶものを作る、誰かの役に立つものを作る――そうすることで「社会の一員である」と心が落ち着くのかもしれません。
1人だけで生きていけたらいいのですが、まったく1人で自活して生きていくことは難しい世の中です。
もし今もやもやしていたり、何をしたら満足できるかわからないと悩んでいる方がいらっしゃれば、自分のためではなく「誰かのために」何かを作ってみるとよいかもしれません。



コメント