私は昔、口紅をつけない人でした。
理由は、「唇は元々赤いのに、なぜ色をつけないといけないの?」でした。
そんな私でしたが、専門学校を卒業してからはなぜか異様にモテたので、さまざまな人とお付き合いをしましたが、その中の一人に「化粧が汚い」と怒られたことがあります。
「化粧をするなら、きちんとして」と言われて、結局そいつは私のすべてが気に入らなかったのか、体毛が濃いだの足の裏が汚いから風呂場で洗ってからどうのこうの…とたくさん言われて、そして私と別れてからすぐに付き合った女の子と結婚しました。
「付き合ってる時はいつも歯紅がついてたのに、別れてからつかなくなったね(笑)」とか言われてました。
そもそも何で付き合ったのか分からないのですが、当時住んでた家が近かったことが一番の理由だったかもしれません。
私とその人が付き合った時にもう一人私のことが好きだった人がいたのですが、仮に最初の元カレをAとし、もう一人の私のことを好きだった人をBとします。
AとBはめちゃくちゃ仲が悪くて、お互いいがみ合っていました。
だけど、我々は「写真」という共通の趣味で出会ったので、写真のイベントに参加すれば必ず会うような関係です。
なんで嫌い合ってたのかは分からないのですが、恐らく意見が合わないとかだと思います。
カメラのことはもちろん、人生観なども正反対だったのかもしれません。
私はAとBと二人と付き合いましたが、どちらのことも特に好きではなく、強いていうならAの方と気が合ったし外見も好みだったし、話が面白かったのです。
Bはとても優しく面倒見が良く、誕生日でもイベントでもないのに、月1回サプライズのプレゼントを用意してくれます。
あの頃の私は「寂しい」で出来ていて、誰と一緒に居ても埋まらない心の穴があったし、「誰も私のことを分かってくれない!分かってない!」と思って怒りに満ち満ちていました。
だけど、今の私から考えられないぐらい社交的だったんですよね。
あの頃が一番友達が多くて、いろんな人と出会っては繋がって、そしていろんなイベントに参加しては、カフェで隣同士になった知らない人に話しかけて盛り上がったりしていました。
孤独な人は、社交性が上がる…というと、本当にそうなのかもしれません。
誰かと繋がりたいと必死になってみんなの輪の中に入っていくから、協調性もある。
でも家に帰ってから、得体の知れないものすごい怒りや不安に襲われてグルグルと考えてうずくまったまま動けなくなってしまいます。
人の影響で動けなくなる、と自覚したのは大嶋先生の書籍に出会ってから。
それまではずっと「自分が悪い」と自分を責めながら、「なんでみんな〇〇なんだよ!」と気を遣えない鈍感な人たちの行動に激しい怒りを感じていました。
人が頭の中に居座って、先ほど私に言ったひどい言葉や怒りを感じる態度が、何度も何度も脳内で再生されるのです。
頭の中でグルグルと誰かの言葉や態度を反芻している時って、何も手につかないし、本を読んでいてもちっとも読み進められません。
同じ行を10回読んでも頭に入ってこなくって、すぐにぼーっとしてしまいます。
ある意味これは、相手に思考を乗っ取られている状態でしょう。
そこで心に「心よ、この感覚は〇〇さんのもの?」と聞いてみます。
すると、先ほどまでグルグル回っていた怒りや不安感が、スン…と消えていくのです。
あー!私のものじゃなかったから、こんなに苦しかったんだ!と気づきます。
たとえば上のAの話で言うと、Aは私に「外見も中身もきれいになってほしい」と思っていたのかもしれない。
だけど、それはA自身が自分に感じていることで、Aが「俺は人を好きになれない」と言っていたことと関係があるのかもしれない。
Bはとにかく人が好きでリーダーシップがあったので、自己嫌悪しながらも反発してくるAを好きになれなかっただろうし、いつも輪の中心になって人に気遣いもできるBがAは面白くなかったのかもしれない。
だから私は「理想の自分」と思ってみて、「この時どうするのが正解だったの?」と自分に問いかけてみるのです。
すると、笑顔で二人の話を聞きながらどちらの味方にもつかない自分が見えてくるのです。
もし、Aが本当にA自身のことを「醜い」と思っていて、それを私に投影していたとしたら?
私は真に受けて「醜いから振られた…」とショックを受け、自分の身体的な特徴でどうすることもできないことを延々と悩むことになっていたかもしれない。
もし、Bの言うことを真に受けて「Aは嫌なやつだ」と思っていたら、内輪のノリでしか動けない狭い世界の人間になっていたかもしれない。
なので「理想の自分」は、どちらにも味方せず否定もせず、ただ話を聞いている。
「私に言われているのかも…」と少しでも思ってしまうと、途端に全てが崩れて台無しになってしまうような気がするから。
そんな「理想の自分」が朝起きて真っ先にすることは、「スマホを見ずに、朝の新鮮な空気を肺に入れる」です。
この対比にある「呪いの暗示」は、「いつも誰かのことを気にして、淀んだ気持ちのままベッドから起きて歯を磨く自分」です。
「呪いの暗示」が掛かっている自分は、寝てもスッキリと頭の中が整理されていなくて、常に「あの人に返信しなくちゃ…」とか人間関係の心配ごとが頭の中で渦巻いている状態です。
これはきっと、人と自分の距離が近すぎるんですよね。
人との距離感が近いから見せなくて良い自分まで見せてしまったり、見たくない相手の姿を見てしまう。
全て受け入れて愛せよ、というのは神の愛です。
私たちは人間なので、無条件の愛というのは無意識の中にしか存在しておらず、人の愛というのは幻想なのです。
その幻想の中に夢を見るから、「あの元カレは私のことを愛していなかった!」とか「あんなにひどいことを言った!」とか思って、裁いて罰したくなってしまうんですよね。
そこには私の破壊欲動が隠れていて、私にひどいことを言ったAを裁きたいからBとその後付き合った…とすると、自分が大変な悪女のように思えてきます。
「自分が今まで何の罪も侵さず生きていないと、これからも生きていく価値はない」と心のどこかでずっと思っていたけれど、だけど「私は神ではない」と思った時に見えてくるのは等身大の自分。
等身大の自分は、体のあちこちが汚れていてケガをしているけれど、そのケガを誇らしく思う自分もいる。
「ああ、私はなんてひどい人間なんだろう」とずっと思ってきたけれど、一番自分を人間扱いしていなかったのは自分なのかもしれない。
「私は人間」と思った時に、過去の自分の過ちだと思っていた黒いものから新しく輝く芽が出てきて、そこからまた何かを学んでいけばいいと言っているような気がするのです。
過去をなかったものにするのではなく、そこから何も学ばないのであればそれは罪なのかもしれないけれど、自分を必死に変えようと努力してきた自分を認めても良いのではないか…とそんなことを思うのかもしれません。
(ナラティブです)
本日のメタファー:口紅、真っ赤
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